待ち合わせのカフェに早く到着した秋本は、女性店員に個室利用のお願いをした。奥に位置する個室へ案内されると、着席して百合子を待った。約束時間の5分前に勤務を終えた百合子が到着した。店内に入ると先ほどの女性店員に秋本の待つ部屋へ通された。お互いの自己紹介が終わり、秋本が呼び鈴を押すとフロア担当の店員が現れ、百合子はアイスコーヒーを、秋本はアイスティーをそれぞれ注文した。注文した品も届き二人の空気が和むと、秋本はカバンの中からノートを取り出し本題に入った。
秋本は事前準備した内容を丁寧な表現で百合子に質問した。百合子は初面談の時には思い出せなかった事を、秋本との質疑の中でふと思い出し話した。
23年前の百合子が5歳の時、母親の美山小百合に連れられいつものように保育園に登園した、そしていつもように父親の迎えで帰宅したが、自宅にはいつも居るはずの母親の姿はなかった。百合子の保育園時分の記憶は、曖昧な擦り切れた記憶しかなかったが、何故か『お弁当』の記憶だけは鮮明に残っていたのだ。実に子どもの世界は残酷なもので、どうして百合子の家にお母さんが居ないのか、悪気もなく聞いてくる同級生も数人いたのだ。また、参観日となれば百合子以外の全員は母親が来ていたが、おばあちゃんが来るのは百合子だけだった。彼女はその度に心を痛めるが、父や祖父母を気遣い平常心を装っていた。
彼女が9歳になった時、父親は交通事故で他界した。警察から速度超過によるハンドル誤操作事故と聞かされた。葬儀にはクラス全員の子が参列してくれた。ここ数年、父親はほとんど家に帰っておらず、祖父母が彼女の世話をし、父は遠方へ出稼ぎに行っていると聞かされていたようだ。家計はひっ迫していたが、祖父母はそんな状況を微塵もみせなかった。彼女は中学生になり、クラブ活動を始めてから家計の状況を知った。給食がなく弁当持参の日は、祖母の作る弁当は華やかなものでなく、恥ずかしさがあり他の生徒に見られたくない思いから、隠すようにして食べていた。そして家計に負担をかけたくなくて部活動を辞めてしまった。祖父母は必死でお金を工面して、彼女を高校まで行かせたのだ。
高校生になった彼女は、家計や学費の為、アルバイトをいくつも掛け持ちしていたのだ。楽しいはずの青春時代は稼ぐ時代となった。そんな日々の生活の中で、自分を残して居なくなった母親を徐々に憎むようになっていったのだ。父親が早く亡くなったのも、母親が原因だと決めつけ、心の中で母親に対する憎悪の念が固まったのであった。それから、百合子の卒業式を見ることなく、苦労して働き詰めた祖父が病で亡くなった。その後、祖母も百合子の事を気にかけながら、後を追うように他界したのだ。彼女は孤独の身となり、父親や祖父母の事を思えば思うほど、母への憎しみと怒りが沸いてきたのだ。そんな自身の負の生い立ちから、同じような子どもたちの支えになりたいという気持ちが芽生え、保育士となったのだ。
幼少期より好きなお菓子も買ってもらえず、欲しい物も手に入らず、母はなく、父は帰らず、老いていく祖父母との生活。
初見の時の笑顔の裏に、多くの怒涛の苦労があった事を知った秋本の目は涙でいっぱいだった。